石立 真悠子 選手


銘苅敦選手に続きまして今回は石立真悠子選手に執筆いただきました。

銘苅選手と同様、石立選手にも自分史シート(東海林、2012、スポーツコミュニケーション)の手法を取り入れて、心理状態(心の状態が良い時、悪い時)を示しながらその成長の過程を説明していただきました。自分自身のハンドボール人生を振り返っていただき今後の目標などを書いていただきました。


中学時代から始まったハンドボールライフについて教えてください。    

中学の部活動見学の時に、当時入ろうと思っていたバスケ部の隣で行われていたハンドボールを見たことがきっかけで、顧問の先生に誘われてハンドボールの道に進みました。

当時は非常に練習が辛く苦しいものでした。100回辛いことがあっても1回喜びがあるかないかの日々でした。また私生活でも他の生徒のお手本となるように厳しく指導していただきました。ハンドボールに必要な負けず嫌いな性格や根性はこの中学時代に鍛えられたものであり、今の私の基盤となる精神力を育てていただきました。

 

高校に進むと、中学時代とは正反対に、自分で考えて行動することを求められました。中学に比べると自由が多く、練習でも、顧問の先生に決められた練習をするというよりも、自分で何が足りないかと考え、その課題に対して取り組んでいくというやり方で、自分の言動に対して責任を持つことの大切さを学びました。高校では、ひとつ年上の先輩の代が強く有望されており、自分たちの代は身長もそんなに高くなく、中学のときに全国大会に出た選手も少ない中、始まってみれば一年間負けなしでセンバツ・インハイ・国体の3冠を達成することができました。この結果が得られたのは、先輩方の優勝を目の当たりにし、自分たちもこうすれば勝てるという指針を示してもらったこと。ひとりひとりが各々にあった自分の能力を伸ばすための練習を行うことができたこと。そして全員が負けず嫌いで個性的であったが、ハンドボールに対する熱さは同じでそれを楽しんでいたこと。この3つが大きなポイントではなかったかと思います。

 

大学では、名門筑波大学に入部し、大学でも4連覇という目標を達成したいと期待に胸を膨らませていきましたが、ここで最初の試練が待っていました。春、秋リーグ共に優勝できず、インカレも準決勝で負け、その年の目標をひとつもクリアできませんでした。

前年に負けなしで大学に入った分、ひとつ上のカテゴリーに入って全てが自分のレベルよりも高かったのに、当時は自分の状況を把握できておらず、非常に甘い考えであったと思います。その後、尊敬する先輩と共に厳しい練習を重ね、次の年には大学生になり初めての優勝を手にすることができました。

この時のキャプテンは選択肢があれば常に辛い方を選ぶという方で、その強さや人格には大きく影響を受けました。

 

順調に大学3年と4年を過ごし、4年時には目標としていた実業団に勝つことを国体と全日本総合のどちらでも果たすことができ、仲間に恵まれたとても素晴らしい時間を過ごすことができました。そして当時日本でトップだったオムロンに入部することを決めました。実業団に入る前には、元々痛めていた左肩の手術をすることにしたのですが、これが大きな壁となりました。

復帰して実業団の1年目は自分本来の動きができず、またなかなか試合に出るチャンスもなかったため、自主トレーニングを多くしていました。しかし、初めての寮での生活やルールになじめず、とても苦しかったです。2年目になると試合に出れるようになったのですが、トップであったチームなのに、私が出るようになってから負けるようになり、ゲームを任されるポジション上とても悩み落ち込み考えることが多くなりました。そのときどのように打開したか、振り返ると、次に書く内容のように自分の行動を変えることになるきっかけになったと感じます。

 



石立 真悠子選手の自分史


自分が不調だったとき、落ち込んだ時の出来事について教えてください。    

肩を手術し、自分の思い通りにプレーできないことと、試合で勝てず目標達成できなかったときに落ち込んでいた。

 

監督に自分がチームの柱として信頼してもらっていたし、自分がここで強くならなければチームは勝てないと全責任負う気持ちでやっていた。いつも自分に課題を課していたし、それができなければ負けるという強迫観念のようなものを持ちながら戦っていた。その中で監督も一緒に戦ってくれていたことが伝わってくる指導者であったので、逃げ出さずに立ち向かえたのだと思う。

 

また、当時のキャプテンにも後押ししてもらい、周りにフォローしてもらいながら自分の良さを自由に発揮できるような立場を作ってもらうことができたし、自らもチームメイトに信頼されるような言動を心がけていた。

 

このような経験はその後に起こった些細な壁や分かれ道の時に、周囲の人に必ず手を差し伸べてくれる人がいてそういう人たちの助けを借りることも自分の壁を突破するのに必要なことだと心を開けるようになった。そして自分で決断をするときにも困難な道でも自分なら乗り越えていけると思えるようになった。

 

この困難の後は怪我などで戦列を少しの期間離れることがありながらも仲間と共に日本国内ではある程度満足いく結果を残すことができるようになっていきました。

 

そして元来憧れをもっていたこと、そして日本が40年来出場していないオリンピック出場を果たすために自分をもっとレベルアップさせたいと考えた時に海外に移籍することを決意しました。

 

海外移籍してオリンピック予選までは1年半。

 

たくさんの想いを抱えてハンガリーへ出発しました。

 

しかし、半年で両側の疲労骨折のために帰国して治療へ。その時にはオリンピック予選までは8ヶ月を切っていました。

 

いろいろな人の協力を得て、術後3ヶ月で復帰しますが、本来のパフォーマンスに戻すことができず、オリンピックアジア予選も、チームでのリーグ戦でも負け、どん底の状態でした。常に痛みがつきまとい、トレーニングしたくても思い切りできない、でもパフォーマンスをあげるためにトレーニングしたい。そんな風に気持ちばかりが先行し、から回っていたシーズンであったように思います。

 

オリンピック世界最終予選に敗れ、私の人生にとって大きな目標としていたオリンピック出場が叶わず、何のためにハンドボールをやるのだろう。そんな想いを持ったこともあります。次のシーズンの進退を決める時に、もうハンドボールをやめようと思っていました。そんな時に、家族が「帰ってくるのも帰ってこないのも自分で決めればいい。でもハンガリーに行ってなにか自分で見つけたものはあるの?帰ってきて後悔ないならいつでも帰ってきなさい」と声をかけてくれました。そのとき、自分がハンガリーへ移籍することを後押ししてくださったオムロンや、応援してくれた方々、支えてくれる家族に対して、今自分が帰国しても、感謝をあらわすためのものが何もないなと気付きました。そして、自分自身が自分に対して納得していないことも。幸い、チームからは契約更新を求められていたし、ジュニアチームのコーチをすることも打診されていました。また、今シーズンチームはヨーロッパカップのひとつであるEHFカップに出場します。

オリンピックというひとつだけの大きな高い目標から、地道に日々自分のハンドボールを楽しみ、追求し、高めていく。いろいろな角度からハンドボールと関わり、それによって自分の人生を輝かせたい。今は、そんな風にハンドボールと向き合っています。



石立選手がめざすものは何でしょうか?    

ハンドボールは自分を輝かしてくれるものだと思っている。

ハンドボールを追求していくことで、自分自身の人間力を磨き、人生において日々成長し輝き続けることを目標としている。 




小学生、中学生、高校生に発信したいことは?    

小・中・高生のみなさんーーーーーーーーーーー

ハンドボール、楽しんでいますか?大好きですか?

時には楽しいことばかりでなく、苦しいこと、つらいこと、うまくいかないこと、悔しいこと、いろんなことがあると思います。

でもそんな一見マイナスに見えることも、自分の捉え方や、それに対する自分の行動次第で、プラスに変わります。

「苦しいときこそ成長しているとき。」

いつもそんな気持ちで、嫌なことも、苦しい練習も、楽しんでください!

ハンドボールを通して、それぞれの「自分の輝き」を見つけてください!

世界は自分の思っている以上に広いし、たくさんのチャンスがあります。

いろいろなことにチャレンジできる自分を育て、大きな意志を持って前進し続けましょう。

ハンドボールは人生の中の一部分でしかないけれど、自分を大きく輝かしてくれるかえがえのないものになります。

これからもずっと、そんなハンドボールを楽しみ、愛してつづけてください!!!        



プロフィール

石立 真悠子

福井県福井市出身

福井市豊小学校で陸上スポーツ少年団に入り、陸上だけでなくいろいろなスポーツを行うようになる。

福井市明倫中学校でハンドボールと出会い、入部。

高校は強豪校であった石川県小松市立高校に進む。

大学は筑波大学へ進学。

卒業後はオムロンリレーアンドデバイス株式会社へ就職し、オムロンハンドボール部へ入部。

5年間在籍後、ハンガリー1部リーグ、フェヘールバールKCへ移籍。

現在3年目をハンガリーで過ごしている。