内林 絵美 選手


今回は神奈川県出身で、国士舘大学、SCかながわを経て、2004年渡独したユニークなキャリアをお持ちになる内林絵美さんをご紹介します。今回もわくわくする報告でたくさんの情報と経験が詰まっています。

ハンドボールとの出会いを教えてください。

 私がハンドボールに出会ったのは、南林間中学校へ入学した1992年のことでした。1学年上のお兄ちゃんの真似ばかりしていた小学生の頃は、少年野球チームに女の子一人混ざってボールを追いかける日々を送りました。中学校には第一志望のソフトボール部がなかったので、投げて・走って・跳ぶ、という競技を選択したのは今から思うと自然の流れでした。私の学年は一番人気のバスケットボール部が新入部員をとらなかったこともあって、小学校でバスケットをプレーしていた仲の良い友達がハンドボール部に入部したことも幸運でした。先輩はみんな優しくて、2年生は一人だけだったので、1年生の6月か7月には新チームでプレーしていました。私は野球のおかげで肩が強くて、身長も今と同じくらい伸びきっていたのでレフトバックでプレーしていました。とにかく仲の良かったハンドボール部。競技自体のおもしろさにもあっという間に惹かれていきましたが、友達と過ごした楽しい時間というものが、その後の私のハンドボール人生を決めたように感じています。練習は長くてきびしいものだったけれど、ハンドボールが大好きで、勝ちたかったから努力を惜しまなかったし、なにより友達といつも一緒だったので辛いと思ったことは一度もありませんでした。練習後も残ってシュートを打ったり、週末は午前・午後練習の後、チームメイトとラグビーやサッカーをしたり、走り幅跳びの砂場を掘って遊んだりしていました。練習で疲れた子は部室で漫画を読んでいました。今思えば「漫画読むなら帰ろう」って突っ込みたい衝動に駆られるほど、中学の校庭に居続けました。本当にみんな仲良しでした。中学校のあの3年間は、ハンドボールがただただ楽しかっただけではなくて、友達がいつも一緒にいて、最高に楽しい遊びがあって、全てが詰まった空間でした。最終的には神奈川県で優勝を果たしましたが、続く関東大会で負けて目標の全国大会への出場は叶いませんでした。

 

 大好きなハンドボールを続けて今度こそは全国大会へ出場したい、という目標を持って進学したのは県立川崎北高校。当時、神奈川で優勝を繰り返していた強豪でした。恩師の鶴留高伸先生からは今に繋がるハンドボール観を教えてもらうことができました。先輩に憧れて、ここでも友人に恵まれて、最高に幸せな高校生活を送ることができました。名門校ということで公にはしゃぐことはできませんでしたが、こっそりおもしろいことを見つけては遊んでいて見つかって怒られる、を繰り返す毎日でした。「もっとうまくなりたい」「勝ちたい」という目標に邁進する中でも変わらずに私の中にあったのは純粋な「楽しさ」でした。それはプレー中の楽しさだったり、プレー以外での友人との楽しい時間だったり。ハンドボールは私にとって、常に最高に楽しいものであり続けました。それでも、ただ楽しむばかりでなく目標へ向かう努力はしていて、高校時代に居残り練習で倒れ込みシュートを繰り返していた左サイドのポジションは土が削れて、雨が降るとそこには大きな水たまりができていました。高校では全国大会出場、そして国民体育大会への出場を経験することができました。

 

  そして、大学では日本一になりたいという思いを抱いて国士舘大学へ進学します。大学に入学すると、まずレベルの高さを痛感させられました。下級生のための練習試合でもなかなか試合に出る機会がありませんでしたが、努力は報われると信じていつも居残り練習をしていました。1年の終わりにそれまでの左サイドから右サイドへ転向。新しいポジションで悪戦苦闘しながら自分なりのシュートテクニックを作り上げてレギュラーの座をゲットすると、3年次には女子部初となるインカレ3位入賞を果たしました。今思えば、あのあたりで調子に乗っていたかもしれない私。4年の夏の東日本インカレで3-2-1DFを私のポジションから徹底的に崩されると、その後の秋リーグは試合に出られない日々が続きました。大学でハンドボールをプレーした4年間は、その後の私の糧となる「気付き」を与えてもらえた貴重な時間でした。DFがダメで試合に出られなくなった私が居残って練習したのはシュート。常に全力投球だった私は、努力に種類があることも、練習に質があるということさえも考えたことはありませんでした。そういった芯となるべきことを学んで、最後のインカレでは再び試合に出場して2年連続3位入賞を果たすことができました。やはり大学でも恩師、先輩、友人、後輩、全ての人に恵まれて過ごすことができました。

 

  大学卒業後は日本リーグからの誘いはなく、自分でも日本のトップ選手と対戦する中で実力の差をはっきりと感じていたので、「やりきった」という思いで次のステップへ向かうことを決めました。中学からずっと目標にしていた教員になるため、神奈川のクラブチーム・かながわガビアーノでプレーを続けながら県立高校で働き始めました。ガビアーノでのプレーは楽しくて、教員として働く毎日は充実していたのだけれど、この2年間は自分史シートでは0になっています。充実しているはずの毎日を送りながら、ごまかしきれない自分の気持ちに気付いていたからでした。それは、「本気でハンドボールをしたい。またハンドボール中心の生活に身を置きたい」というものでした。そんな日々を送っていた2002年8月に、ガビアーノでドイツへハンドボール遠征をする機会がありました。地元のクラブチームと練習試合をした日の光景を私は一生忘れません。50人くらいのファンが体育館にやってきて、横断幕を張り、太鼓を叩いて、大きな声でホームチームを応援していました。ナイスプレーには両チーム関係なく拍手が送られました。「こんなにハンドボールが愛されている国でプレーしたい」。それが私の夢になりました。



内林 絵美選手の自分史


自分が不調だったとき、落ち込んだ時の出来事について教えてください。

(自分史曲線が下がった状態から上がる状態のとき)

当時、ドイツのブンデスリーガで活躍していた植松伸之介さんの後押しもあって、2年間の準備期間を経た私は、2004年にドイツ3部リーグだったSCリーザへ移籍しました。リーグのレベルから見ても、契約条件からしても、海外挑戦という大袈裟なものではなくて、ハンドボール留学というべきものでした。それでも少しでも上のリーグへ、という思いで全力を尽くしました。ドイツ語も一生懸命に勉強して、ライプツィヒ大学に入学。2年目のシーズンにはブンデスリーガ2部への昇格を果たしました。目標だった2部リーグでプレーできたシーズンは嬉しかったけれど、残念ながら1シーズンで3部リーグへ降格してしまいました。リーザは「ドイツの家族」と呼べる温かい人たちに出会って、最高のチームメイトに出会えた町でした。

そんな宝物のようなたくさんの思い出が詰まった町を出る決心を涙ながらにしたのは、ブンデスリーガ2部のツヴィッカウから移籍のオファーがきたからでした。

ツヴィッカウでもリーザと同じく4年間プレー。ブンデスリーガ2部で確かな手応えを感じながら、新たな友人に巡り会い、素晴らしい経験を積み重ねていました。2010年からはコーチとしてユースチームの指導を任されて、中学からずっと目指してきた指導者としての道を歩み出しました。このときの選手たちとは全身全霊で向き合って、素晴らしい日々を送ることができました。ライプツィヒ大学も卒業して、そろそろ次のステップへ進む時期が来た、と思っていました。

 そんなとき、ブンデスリーガ1部のフランクフルターHCからオファーを受けました。ずっと目指し続けた「夢」が突然に叶った瞬間でした。

フランクフルターHCに移籍してからの1年は全てが新しい経験でした。練習内容もプレーのレベルも、選手のプロ意識もブンデスリーガーに対する周りの対応も。まさに夢のような毎日でした。もちろん、レベルが上がって思うようにプレーができないときもありました。でも、私らしいハンドボールはできていたし、試行錯誤しながら成功と失敗を繰り返す日々は幸せなものでした。EHFカップでノルウェーのTertnesベルゲンとも対戦して、本当に私のハンドボール人生の結晶のような1年でした。1シーズン目の反省を生かして次につなげようとワクワクしていた2013年の夏。日本での休暇中に突然のチーム破産を知らされました。なんの前触れもなく、ある日を境にチームを失い、それと同時に仕事も家も失い、なによりやっと叶えた夢を失いました。あの時は、強く、冷静にチーム探しの毎日を送っていたつもりでしたが、今思い出しても当時のショックがはっきりと蘇るほど残念な出来事でした。

 



現役選手と指導者の貴重な経験、内林選手が今後めざすものは何ですか?

 ところが、そこで現役を終える準備にはいるはずだった私に巡ってきたのは不思議な縁と偶然でした。知人だったノルウェー人から、「ノルウェー2部リーグのチームに移籍しないか」と声をかけてもらったのです。そのチームが現在所属のヨーヴィクHKです。私に声がかかった時は、ノルウェー1部リーグから2部リーグへ降格したばかりのタイミングでした。1部リーグへ再び昇格の可能性があるかもしれない、と期待して海を渡った私に待っていた現実は、さらに3部リーグへの降格というものでした。8年という月日をかけて1部リーグまで上り詰めたのに、全てをスタートさせた3部リーグへ落ちるまでは1年という時間さえ必要としませんでした。

 悩んで迷う日々を過ごした後に辿り着いた直感的な答えは、「3部へ降格するためにノルウェーに来たはずではない」というものでした。ヨーヴィクから声がかかった時に言われたことは、「右サイドを探している。コーチも足りていなくて、プレーヤー兼ユースチームのコーチができる人に来てもらいたい」というものでした。ヨーヴィクに残ることを決めた私は、翌シーズンからU14女子、U16女子、U16男子チームのコーチになりました。3部から2部へ昇格、そして再び3部へ降格というきびしい3シーズンを送りながら、いまだに夢を追いかける日々を過ごしています。再びあのコートへ立つためには、一体何才まで現役でいなければいけないのだろう・・・と思いながら、中学の頃から変わらず楽しく、真摯にハンドボールに取り組む日々です。指導者としては現在、セカンドチームとU16女子のヘッドコーチを務めながら、クラブジュニア育成プログラムのハンドボールアカデミー、ハンドボールスクールの責任者もしています。ハンドボールの本場でハンドボール三昧の日々。きっと、これから先も私の自分史年表は小さな上下を繰り返しながら、100%に近いあたりに線を描いていくのだと思います。

 



プロフィール

内林絵美

神奈川県出身

南林間中学校でハンドボールに出会い、川崎北高校、国士舘大学、SCかながわを経て、2004年渡独。

SCリーザ・エルベヘクセン(3部/2部)で4年間、BSVザクセン・ツヴィッカウ(2部)で4年間プレー。

2012年にブンデスリーガ1部のフランクフルターHCに移籍して夢の舞台でプレーするも、シーズン終了後、一年の契約期間を残したままチームが突然の破産。

新たな挑戦を決めてノルウェーに渡り、2013年9月からはノルウェー2部リーグ所属のヨーヴィクHKと契約を結んだ。